何人寄れば文殊の知恵?
干支盤で年を選び、「この年についてAIに聞く」を押すと、 AIがその年の語りを一つ書く。書かれた語りはこの頁に溜まっていき、ここがその全部である。 ツッコミを入れて書き直させた回数も、年ごとに添えてある。
まだ誰も聞いていない年は、空のままになっている。 盤を回して、気になる年を一つ埋めてもらえると嬉しい。
六月、飛鳥板蓋宮の朝廷で蘇我入鹿が討たれ、世に乙巳の変と呼ばれる事件が起こった。中大兄皇子と中臣鎌足が動いたこの一件を境に、蘇我氏の専横が終わりを告げる。同じ年、日本で初めて「大化」という元号が定められ、時を数える新しい仕組みが始まった。この後に続く一連の政治の刷新は、のちに大化の改新と呼ばれ、土地や民の扱いを豪族から朝廷へと移す道筋をつけていく。宮の外では稲や麻を育てる暮らしが変わらず続き、人々は季節の巡りに合わせて田を耕し、糸を紡いだ。政の中心では大きな転換が進みながら、村里の一日一日は静かに過ぎていった。
白雉五年、都は難波長柄豊碕宮に置かれていた。この年の十月、孝徳天皇が崩御し、都はやがて飛鳥へと戻ることになる。前年に唐へ渡った遣唐使の一行のうち、高向玄理は唐の地で客死したと伝えられる。海を渡ること自体が命がけで、無事に戻れる保証などどこにもなかった。難波の宮は真新しい木の香りを残したまま、主を失った建物だけが残った。都が移れば人も物も動き、宮を支えた营みも静かに次の場所へと移っていった。
1902年の日本では日露戦争前夜の軍事的緊張が高まり、新聞の売上が急増していた。同年に発表された徳冨蘆花の小説『黒い眼と茶色の眼』は知識層の読者を集め、書肆での売れ行きは良好だった。町では洋装の男性が徐々に増え、背広と呼ばれる洋服の仕立て屋は繁盛していた。女性の間では依然として帯を締めた着物が標準的な外出着であり、銀座の洋品店でも販売される既製の帯留めは月給人の妻たちの間で流行していた。
1924年1月、東京の丸の内では丸ビルが竣工し、当時としては規模の大きいオフィスビルとして人の出入りが増えた。同じ年、前年の関東大震災の被害からの復興が各地で進み、バラック建ての商店が少しずつ本建築へと建て替えられていった。文壇では小林多喜二がまだ表舞台に出る前だが、雑誌「文藝春秋」は前年に創刊されたばかりで、菊池寛の名とともに読者を広げつつあった。この年の5月には日本初のラジオ放送に向けた準備が本格化し、翌年の本放送開始を控えて技術者たちの実験が続いた。物価面では、白米一升が三十銭前後で取引されることも多く、震災後の物資不足がまだ庶民の家計に影を落としていた。パリでは同年夏に第8回オリンピックが開催され、日本からも選手団が初めて陸上競技に参加している。
あの年の暮れ、映画館は満員でした。『戦地ニュース』や時局もの一辺倒の中でも、人々は隅田川のほとりで『君の名は』という新作に心を寄せ、せめて映画館の暗闇の中で日常を忘れたいと願っていました。家庭では砂糖がだんだん手に入らなくなり始め、お菓子屋さんの店先に並ぶ和菓子も少なくなっていて、子どもたちは一銭五厘で買えるラムネを大事そうに舐めていました。新聞ラジオが次々と報じる出来事に、大人たちは新聞を握る手に力がはいり、夜が更けても家族で囲炉裏を囲みながら何かが変わっていく息苦しさを感じていた、そういう季節でした。
1945年の春から夏にかけて、日本の街では本当に静かになっていました。ラジオからは毎日のように大本営発表が流れていて、多くの人たちが懐中電灯を手に防空壕に向かう日々でしたが、その合間に子どもたちは焼け跡で遊び、女性たちは配給の芋やトウモロコシをやりくりしながら家族の食卓を整えていました。当時の砂糖は一人一ヶ月数十グラムという配給制で、お菓子といえば黒蜜を固めたようなものが珍しい贈り物だったほどです。8月15日の終戦放送を聞いた時、大人たちは呆然としながらも、どこか安堵した表情だったと後に多くの人が語っていました。それからの秋冬は、焼け野原で新しい生活を始める人々の姿が街のあちこちに見られ、焚き火を囲んで夜の帳が下りるのを待つ日常が始まっていました。
1957年10月、ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、その一報は世界中の新聞の一面を飾った。日本国内では南極観測隊の昭和基地が話題となり、宗谷という船の名前を子供たちも覚えるほどだった。街ではラーメンが一杯30円前後で食べられ、電気釜が家庭に少しずつ入り始めていた。文学では「点と線」など松本清張の作品が読まれ、社会派推理小説という言葉が定着していく時期でもあった。テレビ受信契約数はまだ限られていたが、街頭テレビの前に人が集まる光景は各地で見られた。
1958年1月、東京タワーはまだ建設の途中で、鉄骨の骨組みが芝の空に少しずつ伸びていた。前月に竣工したばかりの晴海通りや都内の話題と並んで、新聞には南極の昭和基地に取り残された樺太犬の記事が大きく載った。タロとジロの名前は多くの家庭で口にのぼり、ラジオのニュースにも耳が寄せられた。街の食堂では一杯50円ほどのラーメンが人気を保ち、正月気分の残る商店街には福袋を求める客の姿もあった。テレビはまだ贅沢品で、力道山のプロレス中継を見るために近所の電器店の前に人が集まることも珍しくなかった。月末に近づくにつれ、南極からの一報を待つ空気が、寒い冬の日々の合間に静かに流れていた。
1958年2月、東京タワーはまだ建設中で、完成は同年12月を待つことになる。街の書店には週刊誌が並び、前年創刊の「週刊女性」などが読者を広げつつあった時期にあたる。テレビはまだ高価な家電で、多くの家庭では白黒テレビの前に近所の人が集まって力道山のプロレス中継を見る光景があった。南極では前年からの観測が続き、タロとジロの生存が確認されるのはこの年の1月のことで、新聞はその報を大きく伝えた。
1958年、東京タワーが完成し、333メートルの鉄塔が芝公園にそびえ立った。同じ年に一万円札が初めて発行され、聖徳太子の肖像が刷られた紙幣が財布に収まるようになった。街ではインスタントラーメンとして日清のチキンラーメンが発売され、袋を開けてお湯を注ぐだけの手軽さが台所に新しい風を運んだ。テレビでは「月光仮面」の放送が始まり、覆面姿のヒーローが茶の間の子供たちを画面の前に集めた。フラフープも子供たちの間で広まり、腰を回す遊びが公園や庭先で見られるようになった。長嶋茂雄が読売ジャイアンツに入団し、プロ野球の球場に新しい注目が集まった年でもある。
1964年10月、東京オリンピックが開幕し、東海道新幹線が同じ月に開業式を迎えた。東京と新大阪を結ぶ所要時間は、それまでの特急こだまで6時間半ほどかかっていたところが、新幹線では4時間に短縮されると発表された。街ではオリンピック関連のニュースがテレビで盛んに流れ、白黒テレビの普及も進んでいく時期だった。カラーテレビでの実況放送も一部で始まり、家庭用電化製品への関心がいっそう高まった年でもあった。
1965年の日本では、東京オリンピックから一年が過ぎ、高度経済成長が加速していた時期だった。テレビは急速に普及し、朝日新聞の記事によれば普及率は60パーセントを超えており、茶の間で家族が一緒にテレビドラマを見る光景が当たり前になっていた。同年放映開始の「ウルトラマン」は毎週日曜日の夜間に放送され、その後の特撮ブームの先駆けとなり、子どもたちが学校の帰りに友人と怪獣の話題で盛り上がっていた。一方、街の商店街ではまだ八百屋や魚屋などの専門店が主流で、スーパーマーケットは大都市の限定的な地区にしか存在せず、人々は毎日の買い物のため近所の店舗を訪れていた。
1966年、ビートルズが来日し、日本武道館で公演が行われた。武道館という会場をめぐっては、神聖な場に相応しくないという声も新聞紙上を賑わせた。この年は航空機事故が相次ぎ、全日空機が東京湾に墜落し、続いて英国海外航空機が富士山付近で空中分解する事故も起きている。テレビでは日本テレビ系で「笑点」の放送が始まり、大喜利という形式が茶の間に定着していった。街ではミニスカート姿の女性を見かけるようになり、モデルのツイッギーが来日したこともその流行を後押ししている。丙午の年でもあり、出生率が大きく落ち込んだことも、この年ならではの特徴として記録されている。
1968年、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、日本人として初めての快挙となった。同じ年の5月には十勝沖地震が起こり、東北地方に大きな被害をもたらした。街ではカラーテレビの普及が進み、メキシコオリンピックを翌年に控えた話題も新聞に載った。3億円事件が発生し、府中で現金輸送車が狙われた事件として世間を騒がせた。学生運動も各地で激しさを増し、大学が長期にわたって封鎖される事態が相次いだ。物価では大卒初任給が三万円台に乗り、家庭には少しずつ電化製品が増えていった。
1969年7月、アポロ11号の月面着陸の様子が日本でもテレビ中継され、多くの家庭が白黒画面を見つめた。国内では東名高速道路が全線開通し、東京から西へ向かう自動車の流れが変わった。歌の分野では「黒ねこのタンゴ」が子どもから大人まで口ずさまれ、レコード店の売り上げを伸ばした。物価の面では、喫茶店のコーヒー一杯がおおむね100円前後で、学生も気軽に立ち寄れる金額だった。新宿や渋谷の街角にはフォークソングを歌う若者の姿があり、社会運動の熱気もまだ色濃く残っていた。年末には日本初の缶入り緑茶が試験的に登場し、飲料の売り方が少しずつ変わり始めた。
1984年はグリコ・森永事件が世間を騒がせ、新聞やテレビが「かい人21面相」の名を連日報じた。同じ年、任天堂のファミリーコンピュータはすでに家庭に広がり始め、子どもたちの遊び方を変えつつあった。夏にはロサンゼルスオリンピックが開催され、体操の具志堅幸司らの活躍が伝えられた。国鉄はまだ分割民営化前で、駅の窓口には硬い切符が積まれていた。街ではウォークマンを手にした若者が増え、音楽の聴き方が少しずつ個人的なものへ変わっていった。物価の面では新聞購読料や国鉄運賃も改定が続き、家計簿にその変化が細かく記録されていった。
あの頃、私たちの生活は大きく変わろうとしていました。携帯電話はまだ持ってない人も多かったけど、NTTドコモが「i-mode」でインターネットに繋がる時代が始まって、駅の階段でもちょっと立ち止まって画面をのぞき込む人が増えていました。テレビではジブリの「千と千尋の神隠し」が大ヒットして、映画館の前には何時間も待つ人たちの列ができていて、あの作品が心をどう掴んだのかを家族で何度も話題にしていました。街を歩くと、みんな「エビオス」みたいな栄養ドリンクを片手に仕事へ向かい、月々のサラリーマンのお小遣いは平均三万円程度でしたから、その中でやりくりしながら週末は友人とカラオケに行く、そんなゆったりとした日常が続いていました。
あの頃は携帯電話がどんどん進化していた時代で、2005年の秋には『FULLMETAL ALCHEMIST』がアニメで大ブームになったり、iPodが日本でも本格的に普及し始めたりしていました。駅前の家電量販店では、若い人たちが首からイヤホンをぶら下げているのをよく見かけたものです。生活の中では、100円ショップがまだ珍しくて、そこで何もかも揃うことに驚いていた時期で、家計も今より少し潤いのある感じがありました。小泉首相のころで、世の中どこか上向きな空気があって、人びとは新しいものをどんどん試してみたい、そういう気分だった気がします。
2021年の夏、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、東京オリンピックは一年延期の末に無観客での開催となり、選手たちの声だけが体育館に響いた。街から歓声は消えたが、大谷翔平がメジャーリーグで二刀流の活躍を見せ、朝のニュースで話題になった。緊急事態宣言のもとで在宅勤務が広がり、Zoomでの会議中に子どもの声が画面越しに聞こえることも珍しくなくなった。同じ頃、家庭用のゲーム機は品薄が続き、Nintendo Switchを求めて電器店の抽選に並ぶ人の姿があった。飲食店には時短営業の張り紙が貼られ、夜八時には多くの店の明かりが落ちた。マスク姿での外出がすっかり日常になり、消毒液のボトルがどの店の入口にも置かれるようになった。
2025年は大阪・関西万博の開幕で幕を開けた。会場の目玉となったのは大屋根リングで、木造建築として世界最大級という触れ込みが繰り返し報じられた。米の価格上昇も家計に響き、店頭では備蓄米の放出が話題に上った。夏には将棋の藤井聡太が主要タイトルを保持し続け、その強さが度々ニュースになった。物価高が続く中でも、コンビニやスーパーでは新商品が並び、暮らしの細部にはいつも通りの日常が流れていた。